2008年10月25日
青蓮寺(常陸太田)
集中曝涼のお寺巡り、今まで行ったことのある佐竹氏の菩提寺・正宗寺などを
再度訪問して文化財を拝見しました。一番は掛け軸が多かったようですが
ご本尊を拝見できるところもありました。
京都と全然違う点は、町内会の方?保存会?お役所関係?かな。。
皆さん総出でなさっていてほほえましい・・。茨城弁でのひなたぼっこ・・て感じね。
久しぶりにたくさんの茨城イントネーションを聞きました。
文化財の保存状況はあまりよろしくない印象を受けました。
こちらでも壊れたまま展示されている物もあり、茨城県の文化度は大丈夫かな?
青蓮寺 しょうれんじ 常陸太田市東連地町200
こちらも曝涼中で看板がありましたので行けましたが、かなりわかりにくい細道です。
この地で、天智天皇の名前にお目にかかろうとはびっくりしました。
東連地・繁は(最初人の名前かと思ってよく見たらトウレンジって地名なんですね)は
天智天皇が清見原親王であったころ、天智9年(670年)、2年間門跡を止められた場所。
京都の青蓮院門跡はあまりに有名(そろそろ秋の紅葉のライトアップが始る頃・・)
あの三千院も門跡寺院ですし・・しかし京都の寺院が綺麗に見えるのは苔の効果も
大きい気がします。。茨城だとど〜も雑木林なので・・。
川にほど近い平地にさりげなくありました。
不可思議な石段と屋根がなんとも印象的。もう少し前の庭でも整備されると
違うのでしょうが・・。


木造阿弥陀如来立像や夢想国師の像、親鸞聖人像、畠山氏下秀が出家後の
性證房像もありました。たくさんの掛け軸と、巻紙の手紙も公開されていました。
「豊後の国二孝女」の本も出版されていて、江戸時代後期親鸞聖人の遺跡巡拝の旅の途中
青蓮寺(東連地町)で病に倒れ.た父を迎えに来た姉妹の話。孝女=孝行娘。
そんな関係の手紙でしょうか。。読めませんけど・・長文の手紙がきちんとテーブルに全部
開いてあり、間近に見ることができました。二孝女伝碑文の写しもあるようでした。
・・その物語たるや、1811年親鸞聖人550回忌の折、京都西本願寺で、青蓮寺住職が農民の
出身地臼杵藩の住職に出会い、7年間病臥に臥す話を聞いた娘(22&19歳)が4ヶ月かけ
1400kmをかけ父を迎えに来て、無事故郷に帰ったという話。
私は単純に迎えに行くのがあたりまえでしょ〜って思っちゃいましたが
かの昔も孝行娘の話として残るのだから、普通の話ではなかったのかな??
さしずめ今の世の中ならばメールで「生きてる〜」となろうかも・・。(困)


「門跡寺院」とは皇室や摂関家の子弟が入寺する寺院・・ということでなかなかの格式ある
お寺のはず。こと天智天皇となれば・・。
帰還後、その殿上に仏像と上宮太子の像を安置。太子堂と呼ばれていた所以です。
鎌倉幕府の畠山秀忠の二男重秀が1205年、出家後父の墓を訪ねて
常陸の国へ巡ってきた時に、こちらの太子堂にお泊りになったとか。
その時太子のお告げで親鸞の弟子となり、再び親鸞と訪れた1218年、あまりの荒廃ぶりに
堂宇を建て浄土真宗の寺としたそうです。。青蓮の夢を見て青蓮寺としたそうです。。
私、日頃夢を見ないので、なんのお告げもなくて・・。
